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vol. 067

中村哲という生き方

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津崎 公子

ライター

中村哲とはだれか。
一言でいうと、アフガニスタンの「砂漠を緑に変えたお医者さん」です。
お医者さんが、なぜ、砂漠を緑に変えなきゃいけなかったのか?その質問に答えるには、中村哲医師のパキスタンとアフガニスタンでの医療活動の紹介から始めなければならない。

▲新聞記者時代の筆者(津崎 公子)執筆の記事

中村哲医師の趣味は山登りで、幼いころから昆虫が好きで、ファーブル昆虫記をよく読んでいた話だが、親の望みで医者の道を進む。

1984年にパキスタン貧困層でのハンセン病を中心とした医療やアフガン難民のための医療チームを結成し、山岳無医地区での診療を開始(1984~1986)。

数十円の薬が買えなくて死んでいく患者の姿を目の当たりにする。1991年よりアフガン東部山岳地帯に診療所を3つ開設。98年にPMS(基地病院)を設立し、診療に当たる。毎年、「日本に帰るのか」と尋ねられ、中村さんは「土着した診療をしよう」と決意したのだ。

ところが、2001年に米中枢同時テロの犯人をかくまったとして、アフガニスタンは米軍による空爆にさらされる中、前世紀以来の猛威を振るう大かんばつに見舞われる。アフガンの住民が瀕死の状態となる(1200万人被災しパキスタンと難民400万人が飢餓状態。100万人が餓死状態)。飢えと渇きの犠牲者の多くは子どもたち。この苦しんでいる人を前に見かねて、自ら白衣を脱ぎすて、「もはや、病の治療どころではない」「まずは命を救う水だ」と、水を求めてかんがい事業を決意する。

▲中村哲さんの映画に関する記事

ところが、日本では、米軍によるアフガン攻撃の後方支援として、自衛隊をアフガンに派遣しようと、2001年衆院テロ対策特別委員会を開く。そして参考人の一人にNGOペシャワール会の中村哲を召喚する。現地を熟知している立場から、中村哲は、自衛隊派遣について「有害無益」と語るが、議員の中から、やじがとび、発言撤回を迫られるも、拒否する。

そして、国会から出てきた中村哲が、私に声をかけてきた。
開口一番「なんばしよっとうと」(博多弁で、何をしているの)。
私は、国会前でこの法案に異議を唱えている、市民の声を取材していたのだ。私は彼とは福岡県立福岡高等学校の同じクラスメートで、また同じ部活の聖書研究会のメンバーだった。

▲筆者の記者現役時代

高校卒業以来37年ぶりの再会だった。
「カトリック新聞の記者よ」と答え、彼が国会で「自衛隊派遣は有害無益」、百害あって一利なしとした発言の、撤回しなかった理由を尋ねた。
「男が廃る」
男がひとたび、発言したことを撤回することは、人間として恥なのだ。改めて内村鑑三に傾倒している彼の言葉の重みを感じた。彼が好きな聖句「野の花を見よ・・・」(ルカ12・25-34)について若干話を聞き、後日講演を取材したのが、彼との最後だった。

 2002年12月、中村哲でも手の施しようがなかった10歳の次男が亡くなる。子どもの病気は中村哲の脳神経内科の分野だった。彼はこの次男の死と、遠くから診療所に着くまでに飢えと渇きで亡くなるアフガンの子どもたちとその悲しむ母親たちの姿が重なり、心を揺さぶられた。

これを機に一から独学で土木を学び、アフガンの人たちが修復できる江戸時代の工法を使って、地元の人たちと井戸の堀削を始め、2003年にかんがい用水路の整備事業に着手。2010年に全長25キロに及ぶかんがい用水路が完成する。

▲新聞記者時代の筆者(津崎 公子)執筆の記事一面

砂漠が潤い、難民らの帰郷で田畑が耕されて、「65万人の命と生活を守った」中村哲は、アジアのノーベル賞、マグサイサイ賞を受賞(2003年)。
2010年には、中村哲はクリスチャンだが、住民のよりどころとなるモスク(イスラム教の礼拝堂)とマドラサ(イスラム教の神学校)を建設。
2019年10月にはアフガン大統領から名誉市民権を授与。
2019年12月4日、アフガニスタンで、凶弾に倒れる。
この訃報で、35年に及ぶ中村哲の活動を再確認する方もおられたことだろう。

彼が出会ったアフガニスタンの人にとって、「大切なのは水と食べ物、平和な家庭生活」「まずは難民を作らない努力が先」「平和には戦争以上の力があり、平和には忍耐と努力がいる」
これらの言葉は、平和憲法を大切にする中村哲の言葉だが、まさに現地主義の理念と行動に裏付けされた言葉である。

中村医師とは、高校時代、担任で、聖書研究会の部長でもあった平山先生の下で共に学んだが、特別に目立った生徒ではなかった。後で本人が、高校の講演会で明かしたことだが、修学旅行で、体調が悪いと休み、旅行には欠席したことがあった。

これは、平山先生に了解のもとで、修学旅行には行かずに、山に登ったという話だ。平山先生は、「山に登れば、体調もよくなるかもしれないね」と言われたそうだ。平山先生は生徒の間では甘いも酢いいもかみわけた人物と評判の先生だった。今は故人の平山先生を、中村哲は、情のある先生と懐かしがった。

▲カトリック新聞社の方から筆者宛てに届いた手紙

当時休み時間の教室では、男子生徒が群がって騒いでいた。グラビアアイドルの写真などを眺めていたのだろうか。しかし中村哲はそこにはおらず、自分の席で、ぽつねんと座っていた。

私立の西南中学時代に洗礼を受け、聖書の山上の教えを暗唱し、内村鑑三の「後世への最大遺物」を読み、感銘を受けたという中村哲。
人間は、死ぬまで成長する。私が出会って知っていることは、ほんの一部「なかむらてつ」という成長過程での一コマである。

そして、亡くなった今、彼は神から授かった使命を果たし、「中村哲」になった。
あらためて「なんばしよっと」と中村哲からの呼びかけをこころに銘じたい。

私も成長過程だが、若くて元気で活躍中の方々のことについても、性急に判断するのではなく、手助けすることがあれば手助けし、その方の成長を長い目で楽しみにして行けたらと思う。

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