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vol. 139
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コミュラボ
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6月11日(火)に開催した第7回居場所の解剖学。九州大学大学院人間環境学研究院専任講師であり、社会福祉士の田北雅裕さんをゲストに「デザインから考える人の居場所について解剖していきました。
■前回までの振り返り
■ゲストトーク
ー物理的環境から「意味」のデザインへ
ーまちづくりの事例:ある温泉街の話
ーふさわしいデザイン
■解剖トーク
ーひとりの人として在ること
ー居場所は関係し合っている
ー時間軸を下におりるとは?
ーデザインとお金の流れ
■次回開催
5月に実施した第6回は、情報・システム研究機構 統計数理研究所 医療健康データ科学研究センター特任准教授、一橋大学 経済研究所 客員教授である岡 檀さんをお迎えし、「生き心地」から考える人の居場所について探究しました。
▷第1回レポート/居場所の法則(仮説)はこちら
▷第2回レポートはこちら
▷第3回レポートはこちら
▷第4回レポートはこちら
▷第5回レポートはこちら
▷第6回レポートはこちら
現在デザインとまちづくりを専門に様々なプロジェクトに携わっている田北さん。コミュニケーションデザイン/サービスデザインの観点から、主に子ども家庭福祉の課題を乗り越えていくための実践・研究に取り組んでいらっしゃいます。
前半は、田北さんが現在に至るまでのお話を踏まえながら、関わったプロジェクトや事例を紹介していただきました。
田北さんは、自身のデザインと居場所の根底には、中高校生時代に過ごした「橋の下」にあると話します。
田北さんにとって「橋の下」は、友人と他愛もない話をして過ごしたり、辛いときに一人で過ごしたりするとても大切な居場所だったとのこと。その経験が根底にあり、誰かにとってかけがえのない場所をデザインしたいと考え、土木を学べる大学へ進学しました。しかし、そこでは田北さんが求めていた「橋の下」をデザインする技術が学べなかったので、新たに環境デザインを学ぶため大学院へ進学。その過程で田北さんは、大きな気づきを得ます。それは、自身が大切にしていた「橋の下」は、誰かが大切に思えるようにデザインしてくれたものではなく、大切な「意味」を自分が見出した場所だったということです。
田北「私がずっとデザインしたいと思っていた『橋の下』は、安全性を目指してつくられた橋と溢れないように整備された河川敷の結果として生じた場所で、誰もデザインしていなかったんです。今まで、物理的な視点からどのように操作すればあの風景がつくれるのかと考えていたんですが、実は物理的に変えなくても風景は変えられることに気づいた。この経験から、物理的なデザインではなく『意味』のデザインに可能性を感じ始めました」
さらに、田北さんにとっての大切な「橋の下」は、ある日、田北さんの想いとは裏腹にフェンスがかけられ、一緒に過ごしていたホームレスの方とともに入れなくなってしまったそうです。「フェンスをかける」という行為で排除される人がいる一方で、それを望む多くの人たちの価値観が優先されること。多くの人を幸せにしようとした時にこぼれ落ちるものを支えることこそが公共のデザインだと考えていた田北さんは、この経験から現実の公共のデザインに疑問を感じるようになりました。
そんな悶々とした想いを抱きながら大学院で学ぶ中で、田北さんは、他者(自分)から見るとちっぽけに思えても、自分(他者)にとっては大切な風景が溢れているのではないかと考えるようになります。そして、「ちっぽけに見えることがら」に目を向けるという意味を込め「trivia(トリビア)」という屋号を掲げ、自身でデザイン活動を始めます。その「ちっぽけに見えることがら」を大切に扱い、支えるためのデザイン活動を田北さんは「まちづくり」と呼んでいます。
2003年、田北さんは大学院生のとき、ある寂れた温泉街と出会い、新しい人が住まないとまちづくりが難しい地域だと感じ、移住します。まず、そこで暮らす人たちの人間関係をほぐす必要性を感じた田北さんは、そのまちの大人たちが子どもの頃遊んでおり、今は放置されていた遊技場をリノベーションし、まちづくりオフィスを構えました。その結果、その場所で住民の方々と一緒に思い出を語っていく中で信頼関係が生まれていったと言います。
そして、デザインの役割のひとつは「人と人との間をおぎなうこと」だと話す田北さんは、温泉街でのあるエピソードを話してくださいました。
田北さんが移住した当初、観光地である温泉街の橋の歩道に、木が枯れてしまった大きなプランターがずらりと放置されていたそうです。不思議に感じた田北さんがリサーチしたところ、まちの中で影響力のあるAさんのアイデアによるものであることがわかりました。「まちのために緑を増やそう」という想いで置かれたプランターでしたが、実際は歩道が歩きにくくなったり、手入れが難しいものとなったために、他の住民はあまりよく思っていなかったと言います。それでも、誰もAさんに進言できずにいたのです。一方で、Aさんの耳にもプランターへの批判の声が間接的に聞こえていました。その結果、10年近く経ち、枯れてしまった今でも放置されていたのです。
そこで田北さんは「引き算ワークショップ」というアイデアを考え、実施します。それは、まちは引き算することでもお金をかけずに美しくなるというものであり、全住民に引き算したいものをアンケートし、1位になったものを試しにみんなで引き算しましょう、というものでした。その結果、プランターが1位になり、みんなで集まって撤去できたそうです。
ここでのポイントについて田北さんは、プランターを設置したAさんもみんなと一緒に撤去作業に参加したことだと話します。
田北「まず、アンケートをとる前に、引き算したいと思われているものでも、今までは温泉街の風景に貢献してくれたことを、Aさんとみんなの前で説明しました。A さんも、その他の住民も『まちのために』という想いと尊厳があります。プランターという目に見えている風景の背景にある彼らの想い・尊厳を分かち合うシステムをデザインし、関係をおぎなっていったのです」
田北さんは、相談したい人の困りごとがあってそれを解決したい時、困りごとを外在化することの大切さについても触れました。
田北「温泉街の事例は、外在化された困りごとを分かち合う仕組みです。そこで可能性や信頼が感じられると、人が集まり『場』が生じます。一方で、本人がそこに関わる意思や姿勢があることを前提にしなくてはいけないと思っています。まちづくりにおけるデザインは、そこに参加したくない人を巻き込んだり、無理やり買わせたりする技術ではないという認識は持っておくべきでしょう。なぜなら、デザインという行為は、使い方によっては権利と尊厳を脅かすほどの強い力があるからです」
具体的に例を挙げると、例えば寄付を募るポスターに泣いた顔の子どもの写真が使われていた場合。子どもの権利が尊重されているだろうかと田北さんは問いかけます。泣いた子どもの顔は、見た人にインパクトや同情を与え、多くの寄附につながるかもしれません。しかし一方で、写真に写った子ども自身に対してだけでなく、子どもは可哀想な存在であると、世間のイメージを強化させることにもつながります。
そういったデザインの傾向に対して、田北さんはアウトプットとしての「点(コンタクトポイント)」を強調するのではなく、プロセスを含めた「面」や「線」で捉えた「ふさわしいデザイン」という考え方が大切だと話します。
「例えばデザイン業界において『新しさ』が評価されることがあります。しかしそれは、当事者にとっては関係ありません。デザイナー側の評価ではなく、それを受け取る人にとってふさわしいかどうかの方が重要です。当事者のニーズやバイアス、プロセスへの参画などに着目しながら、“良いデザイン”ではなく、“ふさわしいデザイン”を目指していきたいと思っています」
田北さんのお話だけで、デザインの奥深さに引き込まれるような濃い時間でしたが、いよいよ解剖トークに入っていきます。
ここでは、さまざまなキーワードの中でも、田北さんが示してくださった、「海面の島の図」について焦点を当て、話が進んでいきました。
田北さんは、プロジェクトを進める中で、「ひとりの人として在ること」をよく意識しているのだそうです。まちづくりのように、人と人をつなげるということは、この海面に浮かぶ島と島の図をメタファーとして考えることができると話します。
「例えば、行政職員と市民がそれぞれの島だった場合。分かり合えないと感じられる行政職員と市民は、一見、上から見ると離れた位置にありますが、実は、横から見るとこうなんですよね」と田北さんが説明してくれたのが、島と島を上と横から表した図です。
<図の解説>
この図は、縦軸が時間の流れを表しており、海面(赤点線)上に見える島は、制度的な役割や専門的な役割を示し、社会の注目や動きによって変化します。行政職員と市民は、一見離れているように見えても実際は(海面の下は)同じ市民なんですね。時間軸を下に降りていくと、個々人の多面性や人格が垣間見える関わりが可能となります。これにより、制度的な役割を超えて、より人間的な部分でのつながりが実感できるのです。制度を越えた想定外のことが生じやすい現代だからこそ「ひとりの人として在る」姿勢は、とても重要な気がします。
下の図は、島を上から見たものと横から見たものを合体させた図です。
コミュラボで仮説として構造化した図は、一つの居場所のことを解剖していますが、居場所と居場所の関係性も深く密接しているように感じます。
田北「海面の島の図で言うと、一見、二つの場所は海面上では離れているけど、それは離れているのではなくて、そもそもつながっていたり、同じ価値を共有していたりということはありますよね。それと同様に、居場所も複数の居場所が関係し合っているという考え方は忘れてはならない点かなと思います。例えば、学校が居場所だった場合、その人にとって今の学校が必要なのかの根拠は、時間軸の下の方にあるのではないでしょうか。たまたま制度化された学校という場所があるからそこを選んでいるだけで、実は学校じゃなくてもいいこともあるかもしれない。もしそこに居られなくなったとき、どういう場所がふさわしいのかは、時間軸を下におりて探ることで見えてくるような気がします」
では、時間軸をおりる(在り方を認識する)とはどういうことなのでしょうか。田北さんは、それが互いに共有できるタッチポイントになると話しますが、もう少し具体的にその方法を伺ってみました。
田北「縦軸は時間軸なので、私の中ではやっぱり『思い出』や『子ども時代』が切り口になりますね。大人は子どもではないですが、『子ども時代』は誰でも共通して体験しています。対話などを通して、子どもらしく在れる状態や子ども時代を思い出す状況をつくっていくことはあります。あるいは、温泉街に関わっていた時には、会議等の時間は概ね海面の上の役割モードになるので、最初の頃はあえて休みの日に訪れたりしていました。こういった最初の関わりが、その後の関係性の中でも、在り方におりていきやすくなる気がしますね」
ただし、この時の一つのポイントとして、あくまで島の全体が見えていることが重要だと付け加え、「時間軸の上と下に優劣はない。その人なりの居心地の良さがある。制度的に振る舞うことに尊厳が付随することがあるため、多角的な視点や歩み寄りの姿勢は忘れてはならない」という大切なポイントにも触れていただきました。
田北さんは、デザインについて、産業の発展に貢献してきた技術であり、一般的にはお金があるところに流れていく傾向があると話します。それは、福祉分野においても、サービスが利用契約制度になった高齢者福祉と措置制度が続く児童福祉の分野では、デザインの視点からすると異なる傾向があるようです。
田北「高齢者分野は、対象者が多い上に、事業者等が差異化を目指して競合しているので多様でユニークなデザインが見られます。その一方で、児童相談所のように競合相手がいない場合、予算も準備されず、デザインが生じにくいのです。さらにデザインは、主として消費者を対象に用いられてきた背景があります。例えば、多くの人に社会課題を知ってもらう必要があるからといって、多くの消費者を巻き込む技術として用いられてきたデザインをそのまま活用すれば、さっきの寄附のポスターのようなケースが出てきてしまいます。当事者の尊厳や権利を尊重しながらデザインを実装していくためには相応の哲学が必要なことは、デザインに携わる人たちが自覚しておくべきことだと考えています」
「デザイン」という行為の中でも、お金があるところで発展し貢献してきたデザインと、権利と尊厳に強く影響する福祉分野のデザインに明確な違いがあったことに気付かされた今回の解剖学。その営みには、ソーシャルワークの本質にも通じる要素のようなものを感じずにはいられません。まさに「ちっぽけに見えることがら」を大切に扱い、支えるためのデザインの大切さを再認識した回となりました。
次回の居場所の解剖学、2024年8月8日(木)です。
第8回は、認定NPO法人フローレンス会長の駒崎弘樹さんをゲストに、「アウトリーチから考える人の居場所」という視点から解剖していきます。
いよいよ居場所の解剖もクライマックス。お申込みがまだの方は、下記よりお申込みください。
※一度のお申込みで全9回分が完了となります。
※お申込みいただいた方には、今後の日程と終了した回の録画をメールにてお知らせします。