CDLマガジン
MAGAZINE
vol. 159
date
2025.01.14
Writer
コミュラボ
Category
Tag
profile
コミュラボ
ライター
「今、めちゃくちゃ楽しいですよ」
そう語るのは、三股町にある幼保連携型認定こども園「ひかりの森こども園」園長であり、光明寺住職の屋敷 和久(やしき かずひさ)さんです。保育園の運営と地域活動、さらにはお寺を基盤とした独自の価値観で、地域に開いた取り組みを進めています。その歩みと活動への想いを伺いました。
屋敷さんは、三股町生まれ。高校を卒業後は、宮崎県外の大学へ進学されました。普通の子だったと話す屋敷さんですが、大学卒業後は海外にも行っていたようです。
「もともと勉強が得意ではなかったので、大学時代は授業もそこそこにバイトに明け暮れていましたね。卒業後は、海外で働いてみたいと思い、バイトで貯めたお金を使ってフランスへ行きました。でも、そう簡単にうまくは行かず、バックパッカーで半年ほど海外を旅していました。フランスからスペインのマドリードまで自転車で走ったこともありましたね」
それから帰国した屋敷さんは、東京都内の会社で2〜3年勤め、三股町に帰郷。寺や保育に所縁のなかったところから、一体どのようにして、寺の住職、こども園の園長へとつながっていったのでしょうか。
「日本に帰ってきてからは、東京の一般企業で運送業や営業関係の仕事をしていましたが、あまり自分には向いてなかったようで。それから、父親が悪くなったのをきっかけに、三股町に帰って来ました。それと同時期、帰郷していた同級生の妻と再会し、結婚。妻は光明寺の次女で、親族で継ぐ者がいなかったため、私が養子として住職を継ぐことになりました。保育園も義祖父の代から運営していたので、一緒に引き継ぐことになった形です」
屋敷さんが家を継いだのは、今から約20年前。もともと寺や保育園に関心があったわけではないと言いますが、若い時から本を読んだり、死生観のようなものに思いを巡らすこともあったとのこと。そういったことから、特に抵抗なく住職の道に進むことができたと屋敷さんは話します。
寺は比較的スムーズに引き継げた一方で、保育園の運営は一筋縄ではいかなかったと言います。その当時、保育園の定員は60人だったにもかかわらず、園児は30~40人で、いわゆる“選ばれない園”だったのだとか。
「若くして園長になり、フットワークの軽さにも自信があったので、すぐに選ばれる園になるかなと思っていたんです。でも、現実はそう簡単ではありませんでした。恥ずかしいのですが、最初の頃は、子どもが遊んで楽しければいいんだろう、くらいにしか考えていませんでした。ところが実際に現場に入ると、それでは通用しないことがわかったんです。当時の私には、人気がない園という現実がとても恥ずかしく、『このままじゃいけない』と強く思ったのを覚えています」
そんな時、隣町の都城市で自由保育を実践する保育園との出会いが、屋敷さんに大きな転機をもたらします。自由保育とは、子どもたちの主体性を大切にする保育のこと。その実践を目の当たりにした屋敷さんは、子どもたちの生き生きとした姿に感動し、約15年前に自園の方針を変えていく取り組みをすることを決意されました。
「その保育園に行った時、子どもたちのパワーがうちの園とは全く違ったんですね。これが本来の保育だと感じました。昔の保育は、わかりやすく例えるなら、みんな同じような枠の中にいてもらわないと困るというような感じでしょうか。でも、本来は一人ひとり個性が異なるものです。実現したい自由保育への理想はあったものの、その転換はそう簡単にはいきませんでした。職員や保護者と何度も対話を重ねながら、少しずつ方針を変え、軌道に乗るまでにはおよそ5年の月日がかかりました」
現在、ひかりの森こども園は「ソダツバヒカリ」というコンセプトで、互いに成長しあい、みんなが輝く環境のもの、7つの取り組みを展開。園内だけでなく、ビオトープや養蜂、里山などもフィールドにし、「アソブバ」「マナブバ」「イノチノバ」をベースに、多様な経験を通じて子どもたちが育つ環境を整えています。
こうした本質的な変革により、ひかりの森こども園は、枠にとらわれず、子どもも大人も自発的に成長する力を育む園となりました。今では、国が掲げる保育の指針にも自然とフィットするようになり、その結果、年間150人以上もの視察が全国各地から来るようになったのだとか。
「今、保育に携わる人たちも、昔自分たちが受けたような保育から脱却したいと思っているのではないでしょうか。子どもは遊ぶのが本能なのに、みんなと同じにできなくて怒られてしまうと、その子たちの自己肯定感はボロボロになりますよね。そうではなくて、さまざまな背景を持つ子たちも同じ環境で、一人ひとりに合わせた保育を行うことがこれからの時代に必要なのかなと感じています」
保育に情熱を注ぐ屋敷さんですが、コミュラボとの出会いは光明寺で「りんりん食堂」が始まった頃でした。
「お寺でりんりん食堂が始まった頃、コミュラボの所長がラフな感じできてくれたのが、最初の接点でした。ちょうど園の運営が軌道に乗り、これから地域に開いていこうと考えていたタイミングだったんです。もし彼らがネクタイを締めて堅い雰囲気だったら、断っていたかもしれませんが、センスが良さそうだなと感じたのを覚えています。今では、よる学校をはじめとしたさまざまな活動で私たちの施設を使ってもらっていますが、片田舎の小さな町が、こんなふうに面白くなるなんて思いもしなかったですね」
コミュラボの活動が増え、よる学校など新たな試みが実現できるのは、屋敷さんのように「場を開いてくれる」存在があるからこそ。しかし、屋敷さんは「そんな大それたことじゃない。本当にwin-winですよ」と控えめに笑います。
「寺って、今では格式ばった場所という印象だけど、昔は寄り合い所や公民館のような機能があったんです。うちは幸い親しみやすい雰囲気なので、開かれた寺として地域を包み込めたらいいなと思っています。もし、地域に開きたい保育園なんかがあれば、コミュラボに一言相談してみるのもいいかもしれません。こちら側のフットワークの軽さも必要ですが、ちょっとしたスペースを開放するだけで面白いことが起こるかもしれませんよ」
これまでの歩みを振り返り、屋敷さんは「保育ってやっぱりいいんですよ。今が本当に楽しい」と噛み締めるように呟きます。
これからの社会は、子どもたちにとって生きることがますます難しくなるかもしれない。そんな見通しがある中で、屋敷さんは「自分で考えて行動できる」ことの大切さを強調します。
「先のことが予測できない社会の中で、自分の力で順応できる子どもたちを育てるためには、教えられっぱなしではなく、自分で考えることができる環境を幼少期から用意してあげる必要があると考えています。そのためにも地域に開き、多様な人たちがミックスされている場で、子どもたちをバックアップしていく。そういう環境があれば、ある意味“最強”なんじゃないかと感じたりもします。子どもたちが県外や海外に出て、いつか帰ってきた時に面白いと感じてくれたり、参加してくれると嬉しいですよね」
最後に、今後の希望について伺うと、屋敷さんは大きな夢と共に次のように語ってくれました。
「やはり地域に選ばれる園になりたい、という気持ちはありますね。都会から来た人や専門家にも、ここは本質的にすごいなと思われるような園でありたい。それから、三股町という人口25,000人程度の町で、こんな取り組みがもっと増えると、この町はもっと面白くなるに違いありません。地域住民を増やしたいとかそういうことではなく、楽しむことが地域の面白い流れをつくるんじゃないかなと思ったりしますね」
屋敷さんのお話を伺いながら、今がベストではなく、まだまだ面白いことが起こる未来がここにはあるのかもしれないという希望が湧いてくるようです。
「新しいことを始めると、その活動はちゃんと継続するのか、結果が出るのかと気にする人もいるが、そりゃだめになることもありますよ。でも、だめだったら、次またやりたい人が出てくるかもしれないし、やりたいって言える空気感さえあれば大丈夫なんじゃないかと思うんですよね」と屋敷さんは語ります。
この言葉を聞いていると、活動が生まれたり消えたりするその営みこそが、自然の摂理のように感じられます。まさにひかりの森こども園は、自分の想いややりたいことを形にできる土壌を耕しているように思えてなりません。
それを伝えると、「実は、うちの法人名、心を耕す福祉会で心耕福祉会って言うんですよ(笑)」と屋敷さん。先々代からの法人名だとのことですが、今の活動にぴったりすぎる法人名です。
今回の取材で語ってくれた屋敷さんの言葉には、地域や子どもたちの未来への熱い思いが詰まっていました。そのエネルギーはきっと三股町の未来を耕し続けていくことでしょう。
屋敷さん、お話をきかせていただき、ありがとうございました!