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vol. 040

連載「津崎忠文の3.11」走りに走った60,000キロ後編 No.3

date

2022.01.12

Writer

津崎忠文

profile

津崎忠文

ライター

その次の女川では、広場に 30人、40 人は楽に収容できそうな黄色のだだっぴろいテントがぽつんとたっていました。中を覗くとこれまたフォーリナーがうじゃうじゃ寒そうに毛布にくるまっています。ただ違うのはここには東洋系のボランティアがたくさん居たことです。みんな人の良さそうな人たちで、名前を聞いても覚えることはできません。台湾人でした。ただ、彼らの特徴的なことはみなさん、ミドルネームというか、英語名を持っていることです。エベリンとかスカイとか、勝手につけているのかわかりませんが、そのおかげでずいぶんと名前と人の認識が早かったと思います。まあ、名乗ったもん勝ちですよね。

私も「Call me Zack」でフォーリナーの間を渡り歩きました。

最後の到着地の気仙沼では学校の教室を借り受けて避難所での活動をしていました。
気仙沼でやっと落ち着いて近況を知ることができました。なぜなら、気仙沼には日本人しかいなかったからです。ともあれ僕の配送の終着地点に着きましたが、荷下しを済ました時にすでに午後2時半をまわっていました。

休む暇もなくその日の午後 11 時には気仙沼を出発して東京に向かわなければなりません。
急いで、教室の隅で寝袋にくるまるも、とても仮眠など出来る状況ではありません。
完全徹夜の末のロングドライブ。夜中にはまた東京へ向けて東北自動車道をひた走り。

不思議と眠気は襲ってきませんでした。気持ちが高ぶり高揚感に包まれ、私は東京へと走ります。そして東京に着いたのが翌朝の5時半、ようやくの眠気と闘いながら始発電車で自宅まで帰り、ひたすら眠りました。

こうして最初の被災地訪問が終わったのですが、全走行距離 1,100 キロ。
感慨はほとんどありませんでした。だって、その日のうちにまた東北へいかなければなりませんでしたから。

ここで、僕がたどった順路をざっとお話ししておきます。
まず、埼玉の家を出て午後8時にボランティア本部へ到着。荷積みをして午後 11 時に大塚の本部を出発。
途中、2度の SA での休憩をはさみ、仙台到着午前6時。荷下し休憩を入れて8時に石巻へ。石巻から半島を巡り 10 時には女川到着。女川でゆっくりとして12 時に出発、気仙沼までの海沿いの道が交通不可なので石巻まで戻って登米に向かう。登米からは山道をたどり、山際から気仙沼市に入る。

この順路をひたすら走り、物資輸送を1ヶ月続けました。短期間に思いもよらない距離を走ったことになります。1ヶ月で 10,000 キロ超。1ヶ月あまりが過ぎると、さすがに物資の輸送の需要は減ってきて私のトラックでの物資輸送も終わりを告げました。

そのルートをこんどはボランティアを乗せて走ることになります。その頃には、被災地へは二人体制で行くことになり、私の負担も大幅に減って来ていて、そしてボランティアの送迎はその後1年あまり続くことになります。その結果として 10 月過ぎには延べ走行距離が 40,000 キロを超えることになります。現地のボランティア仲間にも祝福されながら達成しました。地球の周囲が約 40,000 キロですから7ヶ月で地球をひとまわりしたことになります。

その後翌年の5月にボランティア活動を終えるまでには、60,000 キロに達してしまいました。10 年過ぎた今でも、地図なしで現地にいける自信がありますが、復興がだいぶ進んでいるとお聞きしています。ずいぶんと勝手が違うかもしれません。

僕の最後の旅は、東北の各地をめぐる旅にしたいと今でも思っています。東北の被災地をめぐる旅は私の悲願です。被災地で巡り合った人たちとまたお会いしたいです。

次回は、「目の前の道がとつぜんと消えた」です。 See you soon!

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