CDLマガジン
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vol. 034
profile
蔵元 茂志
ライター
1995年1月17日、午前5時46分。あの阪神・淡路大震災が起きた。
前日夜中の2時まで友達と飲んでた茂志は、爆睡真っ最中だった。
状況を把握した時はすでに起きあがれないほどの揺れに襲われていた。
茂志のすぐ横には食器棚が、飲みつぶれてわが家にお泊りしていた友達のふくよかなお腹の上には蛍光灯が落下した。
蛍光灯が割れなかったのは間違いなくそのお腹のおかげだった。
当時住んでいたのは、古い木造のアパートの2階。下に降りる階段がなくなってるんじゃないか?そんな不安がよぎったけど大丈夫だった。
でも、玄関のガラスがこなごなに割れていて、扉がゆがんで開かなかったので思いっきり蹴って開けた。
近くで火災が起きているから避難した方がいい。そう教えてもらって小学校のグランドにむかった。
道をはさんですぐの当たりが一面焼けているのが目の見えない茂志にも分かった。
ばりばりと言う音、離れててもものすごい暑さだった。
爆発音とガスの匂いがした。都市ガスが漏れてあちこちで爆発していた。
なかったはずの段差がたくさんできていた。
グランドに着くと若い女性が泣きじゃくっていて、それを近所のおばさんらしい人が励ましていた。父親がなくなったらしかった。
とんでもないことが起きた! そう思った瞬間だった。
電話の子機を持って避難していることに気づいて苦笑した。まだまだ携帯は普及していない時代。これで電話が繋がるとでも思ったのだろうか笑。
みんな誰かに連絡をとろうとして、公衆電話に列ができた。
だらだら話してると後ろから怒鳴られた。
小競り合いもあちこちで多発した。日常ではない事態にみんないらいらしていた。
避難所はたくさんの人でごったがえした。
所狭しと人が床で眠っていてトイレに行くのも一苦労だった。
寒かったけど、余震を警戒してストーブはつけてもらえなかった。
初日の食事はパン1枚、次の日におにぎりが配給された。
三日目の朝、いつも通い詰めていたご飯屋のマスターが炊き立てのご飯を差し入れしてくれた。そのご飯が本当に美味しかった!
四日目くらいになって、当時務めていた会社の社長の別荘に避難することになった。
ふだんなら1時間もあれば行ける距離を8時間かけて移動した。
行った先はお店も開いていて嘘のように平穏だった。
カップラーメンを2個一気食いしたのは後にも先にもその時だけだ。
つづく